事務所がある東京芸術センターに、石碑があります。
ふと足を止めると、
千住宿問屋場(とんやば)・貫目改所(かんめあらためじょ)跡
との看板もありました。
案内板によると、問屋場で旅人に人足と馬を手配したそうです。
貫目改所では馬に積む荷物の重さを検査したそうです。
「宿屋は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。
千住宿は50人50疋(ぴき)です。
この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。
問屋場は元禄八年(1695)に設けられました。
馬に詰める荷物には制限があり、40貫目(150Kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。」
50人50疋というのは千住宿の規模なのでしょう。50人の人足と50匹の馬がいたのですね。
従量制のタクシーもしくは宅急便みたいなことをしていたのですね。
行くのは草加までで、その先は草加宿の人馬に引き継ぐのですね。
江戸時代の輸送機関ということでしょうか。
千住には、このような歴史を感じさせてくれるものが数多く存在します。
どこかで、また歴史を発見できたらいいなと思います。






ふと足を止めると、


案内板によると、問屋場で旅人に人足と馬を手配したそうです。

貫目改所では馬に積む荷物の重さを検査したそうです。
「宿屋は、幕府の許可を得た旅行者に対して、人足と馬を提供することを義務づけられていました。
千住宿は50人50疋(ぴき)です。
この問屋場で、人馬の手配をしました。街道の向かい側には、馬寄場がありました。
問屋場は元禄八年(1695)に設けられました。
馬に詰める荷物には制限があり、40貫目(150Kg)を積むと本馬、20貫目あるいは人が乗って5貫目の手荷物を積んだものを軽尻と呼び、次の草加宿までの運賃が定められていました。」
50人50疋というのは千住宿の規模なのでしょう。50人の人足と50匹の馬がいたのですね。
従量制のタクシーもしくは宅急便みたいなことをしていたのですね。
行くのは草加までで、その先は草加宿の人馬に引き継ぐのですね。
江戸時代の輸送機関ということでしょうか。
千住には、このような歴史を感じさせてくれるものが数多く存在します。
どこかで、また歴史を発見できたらいいなと思います。






